濃姫は本能寺の変の前に亡くなったのでしょうか。

あるいはその後も生きていたのでしょうか。

それとも信長への愛情が冷めて、離縁してしまったのでしょうか。

いろいろな議論が交わされてきましたが、史料が少ないために、濃姫の人物像を描くのが大変困難になっています。

例えば、南條範夫は、小説『織田信長』の中で、濃姫は信長と深い愛を育み、比叡山焼き討ち直前に亡くなったと書いています。

美男だったマムシの道三の娘だから、濃姫も美しいはずで、美人薄命の言葉の通り、胸の患いで早逝したとも描写しています。

一介の油商から一国を盗み取った、マムシの異名を持つ斎藤道三の娘だから、父親に似て、機転が利いたようだとも。



歴史を巡るミステリーは奥が深く、興味は尽きません。

濃姫の実像に少しでも近づけたらと思い、フィクションを交えつつ、記事を書いてみます。





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濃姫についての諸説


信長の死後も、濃姫が生きていたと仮定してお話を進めたいので、まず、離縁説について少しふれておきます。


果して、濃姫は信長と離縁してしまったのでしょうか?

斎藤道三は信長に美濃の支配権を譲っていますが、これは信長が濃姫の婿(義理の息子)だったからです。

濃姫と離縁してしまうと、信長の美濃支配の正統性が失われてしまうので、これはあり得ません。

信長は稲葉山城を岐阜と改名し、美濃支配を拠点として、天下布武の志を立てているからです。

天下布武とは、すなわち、自分が天下人になるという意志の表れであり、信長が絶対に譲歩できない大志だからです。


離縁説を主張する人は、史料に濃姫が出て来ないことを真っ先に主張します。

どうして濃姫は歴史の陰にかき消えてしまったのでしょうか?


ある作家は、濃姫が明智一族(濃姫の親族)と共に死んだと主張していますが、これは創作であって史料は存在しません。

本当に、寿命を全うすることなく、濃姫は死んでしまったのでしょうか?


濃姫は15歳で信長に嫁いでいますが、これはおそらく史実でしょう。

信長と濃姫の婚姻の背景にあったのは、織田家と斎藤家の争いです。

信秀(信長の父)は当時、斎藤道三と交戦中でしたが、婚姻を機に、信秀と道三は和睦したとのことです。

婚姻は、織田信秀の家臣、平手政秀の提案です。

つまり濃姫は信長と政略結婚したのです。





ここからはフィクションに近くなりますが、道三は濃姫に、信長がうつけなら殺せと指示したようです。

信長の行状はすこぶる悪く、大馬鹿者だとの風評が、近隣諸国にも知れ渡っていたからです。

濃姫は、うつけの妻になる覚悟を決めていたようですが、なんと言ってもまだ15歳の少女です。

輿入れの日が近づくにつれ、15歳の濃姫の心は大きく揺れていたように想像できます。

父である道三は、濃姫に懐刀を手渡します。

「うつけなら、これで刺せ」と。


濃姫と信長の機縁は、二人とも、生きるか死ぬかの切羽詰まった状況で話が進んだのです。


信長は実はうつけではありませんでした。

うつけを装っていました。

それを知った濃姫の心は、想像に難くありません。


きっと信長に惚れ込んだはずです。


信長の天才的な資質を、聡明な濃姫は見抜いたのではないでしょうか?

人並み優れた能力を持つ16歳の少年と、美しい15歳の少女。

恋に落ちないはずはありません。

南條は書いています。

「お濃は俺の妻だ!」と。


事実、濃姫は喜んで信長の妻になったことでしょう。


二人の愛は、純愛に近かったのではないでしょうか。






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濃姫の夫である信長は、男尊女卑ではなかった


信長は秀吉の妻である、おねに宛てて、思いやりのある、温かい手紙を書いていますが、これは現存しています。

おねは信長に、夫が浮気ばかりして、自分を婆あと呼び捨てていると苦言を漏らします。

信長はおねに、「美しくなった」と書き、「妻(正室)なのだから、自信を持て」と書いています。


一人の女性を「妻」として、また「女性」として尊重する信長のフェミニズム。


女性が戦利品ののように扱われていた当時としては、きわめて珍しいことです。


以上のことから、一つだけ分かることがあります。

多分、信長は愛妻家だったように思います。

濃姫も、妻として、信長を愛していたように思います。

閨房での二人は、仲睦まじかったと、南條も描写しています。


しかし、おそらく二人には子は無かったのでしょう。

濃姫は、どこかさびしげな印象です。


信長 妻 濃姫

妻としての濃姫


濃姫が史料に出てこないのは、政治に口出ししなかったためではないかと考えられます。

想像上の濃姫は、まさしく天下人たる信長の妻にふさわしい、器量の大きな女性としての姿です。

わがままな夫に仕え、寡黙で慎ましく、貞淑で、醜聞の類の一切ない、美しい女性像が思い浮かびます。


濃姫は信長の妻としての務めを、立派に果たしたように考えられます。



西欧の宣教師が記述する信長から想像出来るのは、かなり几帳面で、潔癖な性格だった一面です。

宣教師が書く信長に関する描写は、冷静で客観的な視点から書かれた、一級の史料です。

性急で、剛毅果断、きわめて戦(いくさ)を好み、合理性にあふれ、他人の意見を全く聞かないと。

酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直であったと。

二心を持たない、ストイックで素直な彼の美点が垣間見えます。

信長が、側室を寵愛したという確証も得られていません。


南條は信長に言わせています。「お濃は小さい体なのに、器量の大きな女だな」と。

どちらの記述も一考に値します。

天下人に仕えた、妻としてのお濃の人間の大きさがうかがえます。


信長 妻 濃姫

信長の妻の濃姫ってどんな女性だったの?いろんな説を検証してみたのまとめ


最後に、分かる範囲で調べたことを書いておきます。

岐阜市歴史博物館収蔵の濃姫の肖像画を見る限り、彼女が美しい女性であったのは間違いありません。

本能寺の変の2年後、濃姫は生きていたようです。

『織田信長分限帳』に濃姫が六百貫文を化粧料としてもらっている(1585年)との記載があります。

濃姫は信雄の保護下で生活していたようです。





濃姫の墓は信長の墓所である大徳寺見院にあります。





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